2014年8月20日広島土砂災害と、阿武山の大蛇伝説

 序章.阿武山大蛇伝説の原典を求めて

 

 第1章.2014820日、悪条件が重なって天変地異が起きた

 1-1)天の異変

 1-2)地の異変

 

 第2章.陰徳太平記にみる阿武山の大蛇伝説.そこには、未明の豪雨と、夜明け前の天変地異が描かれていた 

2-1)大蛇とは阿武山そのものか?

2-2)城主から授かった伝家の宝刀

2-3)宵の出陣

2-4)未明の豪雨

2-5)勧善懲悪

2-6)夜明け前の天変地異

2-5)ヤマタノオロチ伝説との比較

 

 第3章.城主・香川光景のその後

 

 第4章.日本で蛇は必ずしも悪役ではない.大蛇の正体を探る

 

 終章.自然の力は人間を超える.災害を伝承し、教訓を生かすしかない

 

 追記.伝説は、何らかの史実の反映であった(2019年4月17日記載)

 

 

 序章.阿武山大蛇伝説の原典を求めて

 2014820日の広島土砂災害(以下、広島土砂災害と表記)で最も被害が大きかった地域は、広島市安佐南区八木町の阿武山(あぶさん)南東部でした。災害の直後に、一部のマスコミが、阿武山の大蛇伝説を報道しました。

その伝説は、阿武山から大蛇が出現して、八木地区を荒らし回っていた。香川勝雄(かがわかつたか)という武将が、1532年にその大蛇を退治した。しかし、勝雄も大蛇の呪いを受けて失明した、というものです。そして、阿武山から出現して八木地区を荒らし回った大蛇とは、この地域に繰り返された土砂災害を暗示しているのではないか、と報道されました。

しかし、伝説は、時代や地域によって細部が異なっているかもしれません。私は、原典である「陰徳太平記」を調べる必要を感じました。教育社から陰徳太平記の現代語訳が出版されています(新書版3巻)。しかし、このシリーズは抄録であって、全訳ではありません。「大蛇伝説」の部分は、訳されていません。

Yahoo!知恵袋に投稿したところ、陰徳太平記はインターネットで公開されている、と教えていただきました。以下、回答者の文章を引用します。

国立国会図書館デジタルコレクション - 陰徳太平記. 合本1(1-18)

 110112コマにあります。活字が汚くて読みにくいですが、漢字と片仮名だけで、短いですから、何とか読めるでしょう。読んであらすじをかくほどの暇はありません。あしからず。

1章.2014820日、悪条件が重なって天変地異が起きた

 1-1)天の異変

 この日、東シナ海からの湿った気流と、太平洋からの湿った気流が、西日本の上空でぶつかりあって乱気流となり、各地に豪雨をもたらしていました。

 被災地の上空では、バックビルディング現象が起きていたと言われます。

バックビルディング現象(ばっくびるでぃんぐげんしょう)とは - コトバンク

積乱雲が風上で連続して発生し、風下では雨が激しく降り続ける現象。風上(後方)の積乱雲が、ビルが林立するように並んで見えることから名づけられた。通常の積乱雲は極めて狭い範囲に1時間当たり20ミリ程度の雨を降らせ消滅するが、バックビルディング現象では次々と積乱雲が発生し、1時間に100ミリ前後の猛烈な雨を比較的広範囲に降らせ続ける。

 下の図は、2014 820広島土砂災害―緊急出版・報道写真集 | 中国新聞社 の6ページのものです。

 1-2)地の異変

 被災地の地表は、「まさ土」と呼ばれる風化した花崗岩に覆われていました。まさ土は、水を吸収すると崩れやすくなります。それが、表層崩壊の起きた一因とも言われます。下の図の左下をご参照ください。パソコンまたはスマートホンでは、図を拡大することもできると思います。

 また、水を吸収して重たくなったまさ土が、救助と復興の大きな妨げとなりした。

 下の図も、2014 820広島土砂災害―緊急出版・報道写真集 | 中国新聞社 の6ページのものです。

2章.陰徳太平記にみる阿武山の大蛇伝説.そこには、未明の豪雨と、夜明け前の天変地異が描かれていた 

国立国会図書館デジタルコレクション - 陰徳太平記. 合本1(1-18) 110112コマ

 以下、古文書を引用する時、字体と仮名づかいは、原則的に現代のものを用います。

 

2-1)大蛇とは阿武山そのものか?

陰徳太平記では、大蛇の住所(?)を、「芸州佐東郡八木村のうち阿武山の中、迫(さこ)という所」と、記されています。

この地域が1973年に広島市に合併するまでは、安佐郡佐東町と呼ばれていました。今でも、緑井6丁目に、安佐南区役所佐東出張所があります。かつては、佐東町の町役場でした。その隣には、佐東公民館があります。土砂災害の時には、避難所として使用されました。

大蛇の大きさは、「8つの丘と8つの谷にまたがっていた」と記されています。さらに、「背中には松や柏が生えていた」と記載されます。これは、明らかに、古事記と日本書紀に登場するヤマタノオロチの模倣です。古事記には、「その身に苔と檜すぎと生(お)い、その丈はたに八谷お八尾にわたりて」と記されています。オロチとは、大蛇のことです。ヤマタノオロチだけの固有名詞ではありません。

 

 背中に木が生えた大蛇とは、阿武山そのものではないでしょうか。あるいは、阿武山の一部かもしれません。さらに、この大蛇は、常に雲と霧に覆われています(雲霧常に掩いければ)。阿武山は周囲に高い山がないために上昇気流が発生しやすく、雨雲や霧が発生しやすい地形となっています。この写真は、雨があがった時の阿武山です。山頂付近は、雲と霧に覆われています。2017年10月13日に、撮影しました。

 この大蛇が、八木村を荒らし回るのです。そのために、「村民愁苦すること甚だし」。これは、土砂災害のことなのでしょうか?続きを読んでいきましょう。

 

 2-2)城主から授かった伝家の宝刀

  八木城城主・香川光景(かがわみつかげ)は、「領内の、城から遠くないところで、このようなことが起きているのは見逃せない。誰か、大蛇を倒せる者はいないのか」と言いました。八木城から、阿武山山頂まで、約2Kmです。その時、数え年18歳の香川勝雄(かがわかつたか)が名乗り出ました。そこで、光景は、勝雄に、伝家の宝刀(家に伝わる所の義元の太刀三尺一寸)を授けました。

 下の2枚の写真は、私が2011年4月6日に撮影したものです。

 八木城があった城山は、現在では、公園として整備されています。香川一族が祖先として崇めた鎌倉権五郎景正(かまくらごんごろうかげまさ、源義家と同時代の武将)を、今でも地元の人が祀っています。

 2-3)宵の出陣

 勝雄は、鎧兜(よろいかぶと)に身を固め、伝家の宝刀を携(たずさ)え、単身で黒い馬に乗り、宵(夜の初め)に出発しました。時は旧暦の二月下旬、現行暦なら4月上旬です。月が兜の星に映るほど、空は晴れていました。そして、心地よい山風が吹いていました。大蛇を倒すため、夜に出発するのでしょうか?それはともかく、下の写真は、八木地区の4月上旬(現行暦)の風景です。2011年に、城山(八木城跡)から私が太田川方面を撮影したものです。手前に、城山北中学校が見えます。校庭には、桜が咲いていました。

  2-4)未明の豪雨

 ところが、勝雄が阿武山を登っていくと、天候が急変しました。「空かき曇りて、山おろし烈(はげ)しく吹き落ちたるに、深谷隠れの桜花、木の葉と共にハラハラと散乱」しました。それだけではありません。「巌(いわお)崩れ、岸(崖のことか?)裂け、山鳴り、谷応(こた)え、満山暗々然として、物のあやめも見え分けず」となったのです。災害になりかねないほどの豪雨です。しかも、話の前後関係からすれば、この豪雨は未明(午前0時から3時の間)に起きています。広島土砂災害の時と、よく似た状況が描かれています。しかも、災害の夜、この地域は停電して、真っ暗でした。「満山暗々然として」の通りです。

 勝雄は馬から降りて、徒歩で、岩をよじ登りながら山頂に向かいます。天候の急変は大蛇の仕業であろう、と考えました。しかし、この時、大蛇は山頂付近で眠っていました。

 

 2-5)勧善懲悪

 「東方既に白(あけ)なんとする」時、つまり夜明け前になって、勝雄は、山頂付近に居る大蛇を発見しました。大蛇は、眠っています。ここで勝雄は、「たとえ相手が大蛇であっても、寝首をとるのは卑怯なことである」と考えます。そこで、大蛇に向かって、大声で叫びました。「大蛇よ、お前は多くの人に危害を加えたのだから、私の手で征伐されるのは自業自得だ(今なんじ深山重淵にもかくれず人里近く出で来て、万民の往来を妨ぐる事これ残害を受くべし、自業自果のいたす所なり)。ただし、今後は山奥に引っ込んで人に迷惑をかけないと言うのなら、許してやろう」。

 陰徳太平記の著者・香川正矩(かがわまさのり)は、香川勝雄(かがわかつたか)を、道徳的に完璧な人物として描こうとしています。著書のタイトルの「陰徳」は、当時の道徳に関する用語なのです。陰徳太平記は、歴史書であると同時に、道徳の教科書でもあります。その分、事実を忠実に記録したものではなくなっています。香川勝雄が1532年に大蛇を倒したことが、歴史的事実として認められているわけではありません。これは、「勧善懲悪」という理想に基づいて創作されたフィクションです。一点の非のつけどころもない正義の味方(ここでは香川勝雄)が極悪人かまたは怪物を倒す、というストーリーです。たとえて言えば、「水戸黄門」や、「ウルトラマン」のシリーズと同じことなのです。

 香川正矩は、香川光景の3代目の子孫です。香川一族とその関係者を、英雄または善人として描こうとします。

 

 2-6)夜明け前の天変地異

 大蛇が勝雄の言葉を理解したか否かは、わかりません。それでも、大蛇は「眠れる眼をカッと開き」、口から「火焔をフッと吐き出し」、勝雄に飛びかかろうとします。背中に木が生えるほどの巨大な蛇が激しく動くのですから、その結果は「岩を砕き樹を折りて」ということになります。これは、土石流が発生した直後の状況ではありませんか。土砂災害の前兆現象には、山鳴り、樹木の裂ける音、腐った土の臭いなどがあります。

 ここで、映画のシーンを思い浮かべてください。怪獣が口から火を吹きながら、スーパーヒーローに飛びかかる。それに対して、ウルトラマンは八つ裂き光輪で、ウルトラセブンはアイスラッガーで、怪獣の首を切り落とす。ネタが古すぎますか?

 勝雄は、主君・光景から授かった伝家の宝刀で、大蛇の首を斬り落とします。その首は、七町または八町飛んで田んぼの上に落ちました(1町は約110m)。そこでも大蛇の首は上下に激しく転動して、さらに一町ほど飛びます。その先で「地を穿(うが)ち、岩を覆(くつがえ)す」のです。そして、大蛇の体から流れ出た血は川となり、「その地ついに淵となり、首は淵中にふかく」沈んでいきました。その後、何日にも、何か月にもわたって、首からうめき声が聞こえたのです。人々は、恐ろしくて震えあがりました。土石流が山のふもとを埋め尽くした光景が、連想されます。

 勝雄も大蛇の毒で失明しますが、医療の効果で回復しました。

 

 2-7)ヤマタノオロチ伝説との比較

 繰り返しますが、この話はフィクションです。香川正矩が、明確に土砂災害を意識してこれを執筆したとは思えません。それでも、気象、天候、土砂などに関する描写が多いことが特徴です。古事記のヤマタノオロチ伝説と比較すれば、わかります。スサノオノミコトがオロチを倒したのが、夜なのか、昼なのか、晴れていたのか、雨(雪)だったのか、季節はいつだったのか、古事記の本文には記載されていません。また、オロチが暴れたために、木が折れたり、岩が砕けたりするような描写もありません。最後に、「オロチが切られたために、ヒノカワ(揖斐川)が血となって流れた」とだけ記載されています。

 偶然かも知れませんが、阿武山の大蛇が土砂災害を暗示すると考えたとき、陰徳太平記の記述は、広島土砂災害の状況に酷似していると言えます。

 

3章.城主・香川光景のその後

 

香川光景は、毛利元就との同盟関係を築きました。一時期には、元就から仁保島城(にほしまじょう、または、にほじまじょう)を任されました。仁保島城は、今でいう黄金山(広島市南区)の山頂にありました。

当時、黄金山一帯は、広島湾にうかぶ島でした。そして、仁保島と呼ばれていました。この地域が陸とつながったのは、江戸時代になってからです。1929年に広島市と合併するまで、安芸郡仁保島村または仁保村と呼ばれていました。。

 写真は、広島市南区にある大型ショッピングセンターの屋上から、黄金山を撮影したものです。左下に見える屋根の長い建物(写真中の黄色い線)は、広島陸軍被服支廠の跡です。

 現行暦の15557月(厳島合戦の3ヶ月前)、陶晴賢(すえはるかた)方の500名の大軍が、ここに攻め込みました。それを、香川光景は、わずか200名の手勢で撃退しました。それも、城にこもっていたわけではありません。合戦の状況は、以下のサイトをご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクション - 陰徳太平記. 合本2(19-38)6870コマ 

仁保郷土史会のページ

仁保島合戦.pdf

 黄金山の山頂には、このような立て札があります。 

 

 

 

 

 15557月には、ここ(黄金山)で仁保島合戦が行われました。同年10月には、厳島で合戦が行われました。黄金山と厳島は、意外なところに接点があります。クリスマスから正月にかけて、黄金山の山頂から見る夕日は、厳島にしずみます(撮影は20161231日)。

4章.日本で蛇は必ずしも悪役ではない.大蛇の正体を探る

 左の写真は、災害からほぼ2年がたった2016810日に、私がJR緑井方面から阿武山を撮影したものです。災害の夜が夢であったかのように、空は晴れわたっていました。しかし、よく見ると、所々に木が生えていません。そこが、災害の夜に積もった土砂です。その形が、大蛇のように見えなくもありません。八木地区を荒らし回った阿武山の大蛇とは、土砂災害のことだったのでしょうか。

 ここで、大蛇くんの名誉のために言っておきましょう。日本で蛇は、必ずしも悪役ではないのです。それどころか、水と農耕の神として、民間信仰の対象になることもあります(詳しくは、蛇.講談社学術文庫.吉野裕子)。

 私は、大蛇とは、阿武山の地上と地下の水脈のことだと思っています。

 阿武山は、雲や霧が発生しやすい地形となっています。つまり、降水量が多いということです。そして、阿武山に注がれた雨と霧の水は、地表の「まさ土」に浸み込みます。地中深くに浸み込んだこの水は、やがて、湧き水となって再び地表に現れます。そして、農業用水または生活用水としてこの地域を潤します。最後には、八木用水へと流れこみます。八木町の阿武山山麓には、豊かな湧き水があります(左の地図の、桃色の線)。「大蛇」(自然の水脈)が、平素はこの地域に恩恵をもたらしています。

 地図は、昭文社.県別マップル34,広島県広域・詳細道路地図,2007年版,8ページ,一部改変

 その一方で、激しい雨が続いたとき、「大蛇」(阿武山の水脈)は、災害をもたらすこともあります。人間が、このような自然の力を完全にコントロールすることはできません。

終章.自然の力は人間を超える.災害を伝承し、教訓を生かすしかない

 「阿武山には大蛇が居る」(注意しなけらば危険な要因がある)ことは、これからも伝える必要があります。そして、災害への備えが大切です。

 

 まずは、主として行政機関がすることです。

 1.客観的で公正な基準に基づいて、土砂災害危険箇所を指定する。

 2.災害の危険がある時は、早めに避難所を設営し、早めに避難を呼びかける。

 3.必要に応じて、砂防ダムを建設する。

 

 次は、個人がしなければいけないことです。

 1.携帯ネットに加入している人は、防災メールが受信できるようにしておく。

 2.深夜の豪雨が予測される場合、遅くなる前に避難する。

 3.腐った土の臭い、山鳴り、樹木の割れる音などは、土砂災害の前兆であることが多く、急いで避難する。

 4.屋外に避難できない時は、家屋内の少しでも高い所(上の階)に移動する。あるいは、崖から遠い場所に移動する。

 5.土砂災害だけでなく、他の災害(地震、火災、水害など)にも備える。飲料水(夏は特に重要)、保存食、ホット懐炉(冬は必需品)、懐中電灯、ヘルメットなどを常備しておく。

 このサイトは、2017年8月13日に公開しました。

 

 姉妹編:2014年8月20日広島土砂災害について

追記.伝説は、何らかの史実の反映であった(2019年4月17日記載)

 2019年4月16日の、朝日新聞広島版です。

 

 

 

 

 (2014年の土砂災害で)被害が大きかった安佐南区の八木地区では、多いところで2千年間に5回の土石流の痕跡が見つかった。1800年代、1500年代前後に起きた痕跡も確認され、1850年と1532年(注、この大蛇伝説)に土砂災害があったという史料や伝承と一致した。

 災害で亡くなられた方々に、心から哀悼の意を表します。安らかに、お眠りください。あなたは、今も私たちの心の中で生きています。

 阿武山よ、鎮まりたまえ。

 亡くなられた方々の霊(みたま)よ、安らぎたまえ。