2014年8月20日広島土砂災害について

内容

1.広島市安佐南区は、自然も街並みも美しかった

2.悪夢の一夜が明けた時、街は豹変していた

3.死者は、77名プラス胎児1名

4.殉職者

5.バッタンバン友の会

6.被災地の卒業式

7.多くの個人と団体が、被災者に対して無償で物やサービスを提供した

8.人だけでなく、犬までもが

9.慰霊の碑(いしぶみ)

10.復興交流館モンドラゴン

11.天国に届けるメッセージ

12.「心の傷」という言葉を使う時には、注意が必要

13.病気や障害のため、避難所では生活できない人がいる

14.防災のための教訓

15.「未明」の意味

終章.深い悲しみを知った人が、本当の強さとやさしさを身につける

 1.広島市安佐南区は、自然も街並みも美しかった

 私が広島市安佐南区で緑井メンタルクリニックを開設したのは、2012年5月でした。2017年4月末で、5年が経ちました。その前の5年間は、安佐南区八木の安佐病院に勤務しました。八木地区と、緑井地区は、820広島土砂災害(以下、単に、災害と記す)でもっとも被害の大きかった地域です。私は、仕事柄、被災された方々と関わることが多く、この度の災害には複雑な思いを抱いてまいりました。まだ、災害は終わっていません。けれども、今の時点での私にとっての総括をしておきたいと思い、このウエブサイトを作成いたしました。

 なお、私は、災害、気象、地質などの専門家ではありません。不備な点は、ご容赦願います。

  上の写真は、2012年1月の雪の日に、私が安佐病院(安佐南区八木)の屋上から阿武山(あぶさん)を撮影したものです。この時も、山には雲がかかっていました。阿武山は周囲に高い山がないため、上昇気流が起きやすく、雨雲が発生しやすい地形となっています。この写真を見てお分かりのように、安佐南区の八木地区は、自然も街並みも、美しい地域でした。

 しかし、時として、美しい自然が、人に対して牙をむくことがあります。

 

  2.悪夢の一夜が明けた時、街は豹変していた

 下の写真は、東京新聞WEB版の8月21日号に掲載されました。

 この写真の中だけでも、土石流と土砂崩れが何か所も起きてります。

 上下の写真の中で、黒い枠で囲った建物は、同じ建物と思われます。下の写真のほぼ中央の手前側が、梅林小学校の校庭です。災害の時は、避難所となりました。2本の赤い線は、この災害で最大級の被害をもたらした土石流を示しています。この土石流は、県営緑ヶ丘住宅地(緑の線)の一部を貫通しています。そして、土砂が分厚く積もっています。この土砂の下にどれだけの人が埋もれているのか、この時点では誰もわかりません。


 3.死者は、77名プラス胎児1名

 災害直後には、死者74名と発表されました。その後、災害関連死の3名が追加され、死者は77名となりました。

 

広島土砂災害、初の関連死 「被爆の母、ひどい目に」 日本経済新聞2015/8/18付

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG18H1I_Y5A810C1CC0000/

  安佐南区のAさん(当時86歳)は、昨年8月の広島土砂災害で埋まり、今年3月に肺炎で亡くなりました。Aさんは、初めて関連死と認められました。災害による死者は、75人となりました。

Aさんは16歳の時、広島駅で被爆しました。首にはケロイドの痕が残っていました。

 

 関連死の2人目認定 安佐南区の85歳男性、犠牲76人に | 中国新聞アルファ

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=207912&comment_sub_id=0&category_id=564 

 広島市は2015816日、昨年8月の土砂災害で持病の通院治療が困難になり、入院生活中に病死した同市安佐南区の男性(死亡時85歳)を災害関連死に認定したと発表しました。災害による生活環境の変化が病死につながった、としています。広島土砂災害での災害関連死は、今年7月に認定された先ほどのAさんに続いて2人目です。これで土砂災害の犠牲者は1人増えて76人になりました。

 広島土砂災害、災害関連死3人目を認定 死者77人に - 産経WEST

http://www.sankei.com/west/news/160622/wst1606220107-n1.html

 広島市は2016622日、土砂災害で避難所生活のストレスからヘルペス脳炎を発症し、死亡した安佐南区の男性=当時(58)=を災害関連死と認定したと発表しました。災害関連死は3人目で、犠牲者は77人となりました。(氏名は、公表されていません)

 

  この写真は、災害から3年経った2017年8月20日に、朝日新聞の朝刊の第1面に掲載されました。

 夫妻は災害の3週間前、転勤で東京から広島市安佐南区八木3丁目のアパートに引っ越してきたばかりでした。建物は流され、夫妻の遺体は6日後に見つかりました。夫人は妊娠7カ月で男の子を身ごもっていました(以上、新聞の記事による)。

 正確には、死者は、77名プラス胎児1名となります。

 奥様は、左利きだったようです。

 お子さまは、親族の間では「もみじ」ちゃんと呼ばれています。

もう二度と悲しむ人が出ないよう」祈り 広島土砂災害から8年:朝日新聞デジタル

 

  

 4.殉職者

 この77人(+胎児1名)の方々を、忘れることはできません。いや、絶対に忘れてはなりません。そのうちの1人は、救助活動のために命を落とした殉職者です。

 消防士であるBさん(当時53歳)は、裏山が崩れた安佐北区の民家で、男児を救助している最中に、土砂に巻き込まれました。発見時、男児を抱いたままだったと報道されています(中国新聞2014年8月27日の記事)。この方は、最後まで決して男児を手放さなかったのです。

 中区でBさん消防葬 男児抱えたまま殉職 | 中国新聞アルファ

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=106516&comment_sub_id=0&category_id=564

 2014年11月18日、広島市中区で消防葬が開かれ、約850人の市民が参列しました。この時Bさんは、災害当時の消防指令補から消防指令長に特進していました。

 

  5.バッタンバン友の会

 このような方も、災害で亡くなられました。

カンボジアに届けた愛 広島土砂災害 犠牲のCさん 10学校の建設支援

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=36098

  Cさんは信仰心のあついカトリック教徒でした。通った安佐南区の教会の神父たちが、2001年、カンボジアの首都プノンペンから北西に約300キロ離れた都市・バッタンバンを訪問しました。ポル・ポト派が知識人を粛正した影響で、子どもの通学もままならない現状を知り、支援団体「バッタンバン友の会」を設立しました。 

  「老後に大きな蓄えはいらない。子どもたちの未来のために使ってほしい」。Cさんは支援に共感しました。テレビ局を退職後、夫婦2人暮らしで子どもがいなかったこともあり、多額の寄付を申し出ました。2003年から2007年の間に、寄付金を基にプノンペンやバッタンバンに10の小学校や中学校が建設されました。「C学校」と呼ばれています。

 上記の地図は、なるほど知図帳2010年版172ページの一部を加工したものです。

 6.被災地の卒業式

 2015年3月12日、城山北(じょうやまきた)中学校で、卒業式が行われました。卒業式では黙とうの後、土砂災害で犠牲となった生徒Dさんも含めた3年生178人の名前が読み上げられ、Dさんの遺族にも特別な卒業証書が渡されました(広島ホームテレビのニュースより)。

 なお、Dさんは、猫が好きで、絵が得意でした(中国新聞より)。両親と共に、災害でなくなれました。

 その後、2019年4月、城山北中学校は、八木学区の指定緊急避難所となりました。

 さらに、地元出身の彫刻家が、災害のメモリアルを作成し、寄贈しました。2020年8月29日に、除幕式が行われました。写真の背景が、城山北中学校です。


「息を彫る20191

 新たに根付く命の象徴として、地から空へ伸びようとする命の形を作りました。

 無機物であるはずの石、その芯に大地から繋がる空洞を通すことにより、新たな命の息吹を育むのです。

              (岡本敦生 八木出身 彫刻家)

 八木学区は、平成26年(2014年)820日の集中豪雨により、甚大な被害を受けました。

 災害からの復興を目指す八木学区では、平成30年(2018年)8月、「八木学区復興まちづくり協議会」を設立し、翌年2月に、住民が主体となって、目指すべき将来像とその実現に向けた取組をまとめた「八木学区復興まちづくりプラン」を策定しました。

 このプランの策定を記念し、新たに指定避難所となったここ城山北中学校に碑を建立するとともに、災害に強く、安全で安心して暮らすことのできるまちの実現を目指します。

 「自分や家族の命を守るために、早めの避難を心掛けましょう」

               (以下の碑文は略、この項目は20201028日に挿入)。

 

 

  7.多くの個人と団体が、被災者に対して無償で物やサービスを提供した

災害直後から、急速に、助け合いの輪が広がりました。すべてをここに記すことはできません。

 賃貸業を営む個人と団体が、一定期間の家賃を免除したうえで、被災者に空き部屋を提供しました。

 多くの介護施設が、被災した要介護者の入所を引き受けました。一定期間は料金を免除した施設もあります。また、介護施設には、障害をもった人でも入浴ができる設備があります。その入浴設備を、障害の有無にかかわらず、一般公開しました。中には、避難所からの送迎まで、無料で行った施設もあります。

 多くの保育園が、被災した児童、または保護者が被災した児童を、無料で預かりました。

 一部の動物病院では、避難所に連れて行けないペットを、無料で預かりました。

 災害直後の広島市内は、連日の猛暑でした。それでも、多くの人々が、ボランティア活動に参加しました。災害の後、少なくとも3年間は、継続的にボランティア活動が行われました。また、多くの人々が義援金を拠出しました。

 私は、これらの人々と団体に対して、心からの敬意を表したいと思います。

 介護施設や託児施設には、人手不足の所が多く、上記のことは施設の職員にとっても大きな負担でした。それでも、これらの人々の献身的な努力があったからこそ、この地域は復興に向かいつつあるのです。

 

 8.人だけでなく、犬までもが

 広島(神石高原)|ピースウィンズ・ジャパンの活動地域・内容|国際協力NGO ピースウィンズ・ジャパン

http://peace-winds.org/activity/hiroshima/

 広島県動物愛護センターで殺処分される寸前だった犬が、ピースウィンズ・ジャパン(NPO法人)に引き取られ、夢之丞と名付けられ、災害救助犬としての訓練を受けました。初出動した広島土砂災害の現場で、2名の行方不明者を発見しました。その後、夢之丞は、2015年のネパール地震、2016年の熊本地震、2017年の九州北部豪雨災害、2018年の北海道地震などに、災害救助犬として出動しました。上の写真は、上記のサイトからダウンロードしたものです。

2021年末をもって、夢之丞くんは救助犬を引退します。そして、「日本の殺処分ゼロをめざすワンドリームプロジェクト 」の「アンバサダー」となります。アンバサダーとは「大使」という意味です。これが、夢之丞くんの第2の犬生です。

2021年で、夢之丞くんは11歳となりました。820日には、「夢之丞バースデーオンラインイベント」が、NPO法人・ピースワンコジャパンの本拠地(広島県神石郡神石高原町)で行われ、YouTubeでライブ配信されました(PC画面では左側の写真)。

  奇しくも、その日は、夢之丞くんが災害救助犬として初出動した日から7年目でした。(この記事は、2021年9月1日に挿入しました)

 9.慰霊の碑(いしぶみ


 災害から1年経つと、各地に慰霊碑が建てられました。

  八敷福祉会(自治会)が、緑井第八公園(八敷公園)内に、土砂災害記念碑に建立しました。2015年7月19日に、除幕式が行われました。

 上の2枚の写真は、私が2017年6月21日に撮影しました。当時、この地では、砂防ダムが建設中でした。

 下の写真は、広島市安佐南区八木地区にある梅林小学校の敷地内に作成された慰霊碑です。2015年8月8日に、除幕した後に慰霊祭が行われました。

【広島土砂災害】慰霊碑除幕 遺族「私にできることに取り組む」-産経 WEST

http://www.sankei.com/west/news/150817/wst1508170035-n1.html

広島市安佐南区八木3丁目の県営緑丘住宅で16日、付近で亡くなった25人の名前が刻まれた慰霊碑の除幕式が行われ、約150人の遺族や住民らが黙祷や折り鶴などをささげて故人をしのびました。

 除幕式では、父と姉を亡くした高校1年のEさん(15)が、遺族を代表してあいさつをしました。「大きな音で一瞬にして、近所の人たち、家族の命がなくなった。再びこのような災害が起こらないよう、私にできることに取り組んでいく」と誓った。

慰霊碑と命守るまちに 八木で除幕式、25人の冥福祈る | 中国新聞アルファ

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=178922&comment_sub_id=0&category_id=564

 遺族代表であいさつした高校1年生のEさん(15)は、父(46)と姉(17)を失った。「いっぱい笑って、いっぱい叱られた日の幸せに気が付くことができました。いつか絶対に会えると信じ、その日まで『よく頑張った』と言われるよう精いっぱい生きていきます」と語りました。 

 下の2枚の写真は、2017年6月14日に、私が撮影しました。災害の夜が夢であったかのように、空は晴れわたっていました。そして、砂防ダムが建設中でした。

 

 10.復興交流館モンドラゴン

復興交流館モンドラゴンお問い合わせ先 - SAVE THE HIROSHIMA OFIICIAL WEB SITE

 「災害を思い出すから、ここに帰りたくない」と話す人も多いなか、先ほどのEさんは「この場所に来ると、お父さんやお姉ちゃんと話ができる、この場所に戻りたい」と言いました。しかし、Eさんの自宅跡は砂防堰堤工事のため立ち退きになるので、Eさんがここに戻ることはできません。

 復興交流館モンドラゴンは、住む場所を失った人が被災地に帰ることができるために、建てられました。そして、コミュニティ再生と、土砂災害の伝承を目的としています。

 

 上の写真も、2017年6月14日に私が撮影しました。この日は、団体の訪問がありました。その時、私のすぐそばで、女性のカメラマンが写真を撮影していました。その人は、朝日新聞の記者だったようです。そして、下の写真がその時の写真と思われます。2017年9月1日の朝日新聞広島版に掲載されました。

 11.天国に届けるメッセージ

 天国の父・姉「大好き」 安佐南の高3Eさん | 中国新聞アルファ

http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=367011&comment_sub_id=0&category_id=564

先ほどのEさんは、災害直後から、会員制交流サイト(SNS)で、父と姉にメッセージを送り続けています。

 「父さんと姉が天国に行って三年」。「また会う日はいつかわかんないけど、今よりももっと2人のこと好きだと思う」。災害から3年経った2017820日のメッセージでした。父(当時46歳)と姉(同17歳)の思い出の写真とともに。 

 SNSは非公開で、会員だけが閲覧できます。

 

 12.「心の傷」という言葉を使う時には、注意が必要

 ここで、私の、精神科医師としての意見を2点ほど述べさせていただきたいと思います。

 1点めは、「心の傷」という問題です。

 私は、緑井メンタルクリニックのFacebookに、2015年12月31日付けで、以下のような投稿をしました。

 2014年8月20日の土砂災害で心に傷を負った人々も、大多数は回復していきました。しかし、一部の方は、後遺障害に悩んでいらっしゃいます。今後も、その方々の診療に、全力を尽くしていく所存であります。

 この投稿の中で、私は、「癒えない」という言葉は使わず、「大多数は回復している」ということを強調しました。

 阪神大震災と地下鉄サリン事件が相次いだ1995年頃から、大きな災害や事件が起きると、「心の傷」という問題が重要視されるようになりました。そのこと自体はよいことだと、私は思います。しかし、一部のマスコミは、実地に被災者(被害者)を調査したわけではないのに、感傷的に「心の傷は癒えない」という見出しで災害(事件)を報道するようになりました。

 一口に「心の傷」といっても、内容も程度も、人によってさまざまです。比較的早く回復する人もいれば、そうでない人もいます。

 すでに心の傷は癒えたと思っている人がこの見出しを見て、「私の心の傷は、本当はまだ癒えていないのだろうか」と、不安に思うかもしれません。あるいは、実際に心の傷を負っている人が、あらためてその事実を思い知らされることになるかしれません。

 「心の傷は癒えない」という見出しが、一部の人の心の傷を深めるのではないかと、私は危惧しています。

 13.病気や障害のため、避難所では生活できない人がいる

 2点目は、病気や障害のために、避難所では生活できない人が居る、ということです。広島市の場合、身体の障害によるものであれば、既に対策はしてあります。

  広島市 - 福祉避難所について

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1298612633592/index.html

 

 身体の障害だけではなく、精神の障害のため、という場合もあります。

 人に対して恐怖心があるために、社会不安障害やパニック障害をきたしている人は、たくさん居ます。また、災害のストレスにより、一時的にこのような状態になる人は、意外に多いのです。その人たちの中には、避難所での共同生活ができない人がいます。このような人が「災害弱者」であることを認識したうえで、対策をたてる必要があります。具体的には、同じ障害をもつ人とその家族だけを集めて、小規模な避難所を設営する。あるいは、行政機関がアパートの一室を借りて、そこを避難所とする。このような対策が、有効と思われます。

 14.防災のための教訓

 1.携帯ネットに加入している人は、防災メールが受信できるようにしておく。

 2.行政機関は、早めに避難所を設営し、早めに避難を呼びかける。

 3.深夜の豪雨が予測される場合、遅くなる前に避難する。

 4.腐った土の臭い、山鳴り、樹木の割れる音などは、土砂災害の前兆であることが多く、急いで避難する。

 5.屋外に避難できない時は、家屋内の少しでも高い所(上の階)に移動する。あるいは、崖から遠い場所に移動する。

 この中で、今すぐにできることは、防災メールが受信できるようにすることです。広島市とその近辺にお住いの方には、広島市防災メールをお勧めします。防災のための情報だけでなく、広島県警察からの防犯メールも受信するように設定することができます。

 Yahoo!JAPAN防災速報なら、日本中のどこに居る人でも、加入できます。自分にとって必要な地域を、選択します。

 広島市 - 広島市防災情報メールの登録方法について

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1482804579927/index.html

 防災速報(無料):地震、津波、ゲリラ豪雨などの速報がメールやスマートフォンアプリに通知-Yahoo!JAPAN

https://emg.yahoo.co.jp/

  実は、前日19日夕方のまだ小雨も降っていなかった時間帯から、何度も繰り返して、「広島地方では20日未明に豪雨の恐れがある」とのメールが届いていたのです。しかし、「未明」が明け方のことだと思ったために、避難が遅れた人が多かったのではないでしょうか?

 

 15.「未明」の意味

未明とは何時ごろ?気象庁用語と辞典では全く違う時間帯ですよ!

 天気予報やテレビのニュースで耳にする未明という時間を表す言葉。報道用語と国語辞典の解説では、なんと全く違う時間帯を示していました。なんとなく早朝?明け方?日の出前?と思っていた方はご確認ください(。

報道用語では、未明は午前0時から午前3時まで

新聞やテレビ放送などによるニュース・天気予報等報道用語では、未明というと、午前0時から3時までのことを指します。天気予報でも、きっちりとこの時間帯のことを指しますので、午前5時は未明ではありません。ニュースで「未明の記者会見で・・・」とあれば、午前0時から3時の間に開かれた記者会見ということです。

国語辞典では?

国語辞典を開くと分かりますが、辞典では「深夜から、夜明け前までの時間帯」と説明されていることが多いです。何時から何時、と厳密に決まっていません(未明(みめい)の意味 - goo国語辞書)。

そもそも未明という言葉を自分で使うことはあまりないと思うのですが、新聞やテレビなどの報道で使われる場合は午前0時から3時と厳密に時間帯が決まっていますので、これで覚えておいた方が良いでしょう。

 終章.深い悲しみを知った人が、本当の強さとやさしさを身につける

【広島土砂災害3年】子供たちの笑顔守る 息子2人犠牲の母 - 産経WEST

http://www.sankei.com/west/news/170817/wst1708170085-n1.html

2人の息子を亡くした主婦、Fさん(40)は2016年秋、被災した場所で再建した自宅に戻った。新たに娘も誕生。悲しみが癒えることはないが、「もう二度と子供たちを悲しい思いにさせない。笑顔を守る」と前を向いて歩き始めた。

 あの日、同市安佐南区の自宅の裏山が崩れ、轟音(ごうおん)とともに土砂が流れ込んできた。山側の1階和室で寝ていた長男(当時11)と三男(同2)が一瞬で土砂にのみ込まれた。別の部屋にいたFさんは辛くも助かったが、2人の死後、何度も自分を責め、家に引きこもる日が続いた。

 そんな家族を勇気づけたのは、次男(12)の一言だった。

 

 「家族みんながニコニコしとかんと、赤ちゃんが来てくれんよ」。兄と弟を失い、怖い夢を見ては泣いていた次男が、少しずつ元気を取り戻し、笑顔でこう話してくれた。そして、新たな命を身ごもり、2016年8月に長女が誕生した。

 下の写真は、上記のサイトの写真をコピーしたうえで、一部を加工したものです。

 Fさんに関するテレビ番組が、インターネット上に公開されています(広島ホームテレビ編集)。

広島土砂災害】「目の前で我が子がー」悔い胸に前に進んだ6年間【ドキュメンタリー】 - YouTube

伝えたいこと-無料動画配信サービス「HOMEぽるぽるTV

 姉妹編:2014820日広島土砂災害と、阿武山の大蛇伝説

 このページは、2017年3月21日に初公開しました。その後も加筆と修正を行い、同年9月4日でほぼ完成しました。今後も、誤字・脱字などがあれば、訂正をしていきます。

 災害で亡くなられた方々に、心から哀悼の意を表します。安らかに、お眠りください。あなたは、今も私たちの心の中で生きています。

 被災された方が、2020年にインスタグラムに投稿されました。少し長い文章ですが、全文を掲載いたします。なお、関係者の名前と顔写真は、隠してあります。

 

5年前は、お腹の中にいた娘ちゃん。

寝ていたら、エアコンがつかなくなって、蒸し暑くて起きて、いつもより明らかにおかしい雨の音…

一階に降りて、ベランダ開けると、川の様に水が流れる様子…

ガスがもれた様なにおい…

爆発するような雷の音…

全てがはじめて経験する異様な状態…

もう逃げられない…警察にも消防にもつながらない電話…

もう無理だって、親しい人にラインして、もう無理かもって泣きながらラインして、いつのまにか、お腹の娘ちゃんにごめんねって話しかけたなぁ…

ほりこみ式の上に建つ家は、下まで降りないと逃げられなくて、階段は滝のようで足元も見えないし、逃げてもきっと、落ちてしまうから、自分はケガしても娘ちゃんは、もしかしたら、助からないかもしれないと、家の中でただただ祈っていた日。妊娠7カ月。何もできなくてただただ外の状況がかわることを願っていたなぁ

一瞬雨が落ち着いた時に階段みたら足元が見えるくらい水がひいて急いで一歩ずつ降りて、腰までつかる中歩いて町内をくだってみた景色は、茶色の世界で、家が崩れて、車がつぶれ。すごい光景でした。近所の人に逃げてって言えない状況だった…逃げる時に二次災害があるかもしれないし、家の前のおばあちゃんは、ドアをあけたら水が入ってくるから…って。どうしていいか分からず家の中を歩き回っている姿が光の影でみえた。雨になるといつも不安になり、住む場所を変えて生活しているけど、雨の音が好きになれない…

娘ちゃんは、お腹の中だから、全く記憶にないけど、8.20になると命の大切さをすごく思う。命を守りたくても、守れないこともあるし、生きたいと思っても生きられない命もある。

だから自ら命をおとすことなく、辛いことがあっても、一度考えてほしい、もしかしたら明日は今日より何か変わってるかな?って。

我が子は、一度あきらめかけた命。そして妊娠することも命がけで。いつも不安と隣り合わせ。

3カ月後、5歳になる娘ちゃん。病気になると、大丈夫かなって不安にもなる。心配する。みんな必ず大切にされて生きてきたから、もっともっと命を大切にしてほしい。

色々な悲しいニュースをみると、明日は何か変わっいてるかもしれないのにって思う…

変わらなければ自分が変わればいい。

娘ちゃんにも、命を大切にしてほしい。

 

8.20これからも生かされた命を大切にしないと、亡くなった方の生きたかった想いが報われない。

             (2020年7月15日)