謎に満ちた真幡社(広島市安佐南区山本)の社伝ー消された広島の黄幡信仰追補ー

 古文書を引用する場合、原則、字体と仮名づかいは現代のものに改めました。真幡社の社伝には、少なくとも5カ所に、芸藩通志(広島藩の公式記録)からの引用があります。ここに掲載する芸藩通志は、国書刊行会による1981年版を用いました。このサイトでの芸藩通志は、すべて、第二巻沼田郡の項目から引用しています。

 郷土史を探訪するためのサイトです。特定の宗教や信仰を勧誘するものではありません。

1章、安芸武田氏の勃興

2章、安芸武田氏の盛衰と、金山城(銀山城)

第3章、安芸武田氏の滅亡

第4章、平山八幡神社(西山本村)との関係

第5章、ご神体は比治山に移し去られたのか?

6章、別伝、ご神体は盗まれた?

第7章、祭神の変更

第8章、社名の変更

終章、ご神体は本当に持ち去られたのか?考えられる4つの仮説

 

1章、安芸武田氏の勃興

 

 

 真幡社(広島市安佐南区山本9丁目20-2)のすぐ近くには、安芸武田氏の菩提寺であった立専寺(りゅうせんじ)があります。この神社も、武田との関係は深かったはずです。安芸武田氏は、甲斐武田氏(武田信玄を輩出した)の親戚で、室町時代には安芸国(あきのくに、広島県西部)の守護大名として君臨しました。武田が銀山城(かなやまじょう、古くは金山城と記載)を築いた山は、今でも武田山と呼ばれます。しかし、武田は、毛利元就に滅ぼされました。

 

 まずは、社伝の冒頭です。社伝の中で、芸藩通志からの引用と思われる部分には、下線を引いてあります。

 

 (社伝)安芸の国守護職として鎌倉初期、武田信光

信光は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の玄孫(げんそん、ひまご)武田信義の子なり。

初(はじめ)石和(いさわ)五郎又(また)は大膳大夫、承久(じょうきゅう)の功以て

ここに補せられ金山(武田山)に據(よ)り代々此の国を領し

 

 武田信義は、源義光(通称、新羅三郎)の孫で、源平の合戦で活躍しました。武田信義の五男が、武田信光です。現在の山梨県笛吹市石和町が、武田信光の本拠地でした。そして、自ら、石和五郎と名乗りました。大膳大夫を音読みすれば、「だいぜんだいぶ」となります。訓読みすれば、「おおかしわでのかみ」です。武田信光の役職です。武田信光は、承久の乱(1221年)の時、鎌倉方の東山道(とうせんどう)軍の大将軍となりました。そして、山猿のような(失礼)屈強の甲斐の軍団を率いて上京しました。この功績により、安芸と甲斐の両国を領有することになりました。

 

 社伝の下線の部分は、芸藩通志(士官625ページ)からの引用です。武田信光 信光は新羅三郎義光の玄孫にて武田信義の子なり、初石和(イサワ)五郎又大膳大夫、承久の功を以、安芸の国守護職に補せられる。

 

2章、安芸武田氏の盛衰と、金山城(銀山城)

 

(社伝)五代武田伊豆信宗(むねのぶ)剏(はじめ)て金山城を築き子孫

之を継ぐ、十三代光和(みつかず)の没後家人等光和の外姪

信実(のぶざね)を奉じ城塁(じょうるい)を保ちしが偶々世は戦国、

 

 1517年の有田中井手(ありたなかいで)の戦で、初陣(ういじん、デビュー戦)の毛利元就が、守護大名・武田元繫(もとしげ)を相手に、「奇跡の大勝利」を収めました。それでも、まだこの段階で、毛利元就は弱小豪族です。当時の中国地方の二大勢力であった大内と尼子のはざまで、翻弄されていきます。

 敗れた武田側にとっては、「まさかの大敗北」でした。

 戦死した武田元繫にかわって、後を継いだのが、武田光和(みつかず)でした。

 1524年には、大内義隆が金山城を包囲し、武田光和が応戦しました。この時は、尼子方についていた毛利元就が救援に駆けつけ、大内軍は撤退しました。武田の命運は、毛利元就の動向(大内と尼子のどちらにつくか)にかかるようになりました。

 武田光和は、1540年に病死しました。

 

 社伝の「外姪」とは、おそらく、外戚のことでしょう(この部分も、芸藩通志の引用)。当時の「武田グループ」の本部は、都に近い若狭国(わかさのくに、福井県南西部)にありました。現代のたとえで言えば、「東京の近くに本社を置く」のと同じ発想です。光和には子供がいなかったので、若狭武田家から信実(のぶざね)を養子に迎えました。

 

(芸藩通志、城墟625ページ)金山城 即武田山なり、武田伊豆信宗、剏て此に築き、子孫相続て居守す、十世の後光和没てより、家人等光和の外姪信実を奉て、猶城塁を保しが(以下略)。

第3章、安芸武田氏の滅亡

 

(社伝)天文年間安芸吉田の庄に起りし毛利元就”祖師

親建武二年地頭職吉田の邑(むら)を食(は)む”に亡され金

山城即ち武田山の終焉となる。

 

 祖師の「親」とは、毛利時親(もうりときちか)のことだと思います。毛利時親は建武年間(1334-1336年)に、安芸吉田荘(現在の安芸高田市吉田町)の地頭(現代でいえば税務署長)になっています。

 

 結局、武田信実は、強大化していく毛利元就に恐れをなし、尼子を頼って山陰に亡命しました。城主がこの有様ですから、城兵たちも次々に逃亡しました。この状況で、戦上手(いくさじょうず)の毛利元就が相手では、勝ち目がありません。金山城は、15415月に落城しました。大内義隆の命令を受けた毛利元就が、安芸武田氏を滅ぼしたのです。

(社伝)光和の墓三王原にあり櫻樹をしるしとす

 

 広島市安佐南区山本9丁目36番地にある五輪塔(一部のみ)が、武田光和の墓と言い伝えられています。それがこの墓か否かは、わかりません(武田山 山麓の武田氏関連墓石、広島市祇園西公民館Web情報ステーション)。

 

 (芸藩通志、沼田郡墳墓)武田光和墓、東山本村、三王原にあり桜樹をしるしとす

第4章、平山八幡神社(西山本村)との関係

 

(社伝)沼田郡東山本村は昔東西一村なりしを後二村に分てりといふ

 江戸時代、この地域一帯は、沼田郡でした。沼田高校の学校名は、その名残です。沼田高校は、体育科のある公立高校として、地元では有名です。

 

(芸藩通志、沼田郡村里600ページ)東山本村、昔は東西一村なりしを、後に二村に分てりともいふ。

 

我が町の行政区・地名の変遷(広島市祇園西公民館Web情報ステーション)

(社伝)永禄三年庚申毛利元就西山本村に八幡宮を甫(はじ)め

て建て梁上蟆股(通常はカエルマタ、この社伝ではサルマタと読み仮名がうってある)に毛利の家紋を彫る、東山本村民同じくこれを祭る、

末社一宇(いちう)あり、と蓋(けだ)しこれ真幡社の

前身なるべく社紋に幟など「一心」の毛利家紋を今に

用ふるはその考証に難(むつかし)からず(芸藩通志により)

 

 1543年、大内義隆によって、平山八幡神社の社殿が創建されました。金山城の落城からわずか2年後のことです。この地に「大内の神社」を建てることによって、人々を精神的に支配する意図があったのでしょうか?もちろん、この地域の繁栄と安泰を願うという気持ちもあったことでしょう。金山城に近くて武田の影響が強く残る東山本村からは、少し西に離れた場所を選んで、神社を建てたのかもしれません。あるいは、山本村を東西に分割して、武田の影響の少ない西の方を発展させようとしたのかもしれません。

ところが、「世は戦国」、今度は、毛利が大内を滅ぼしてしまいました。

永禄3(1560年)、毛利元就とその長男の毛利隆元が、平山八幡神社の本殿を造営しました。そして、(りょう、はり)の上にある蟆股(かえるまた)に毛利の家紋を彫りました。

梁とは、建物の骨組みの水平な部材です。柱を横にしたような物です。

 蟆股は、横木(梁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材です。

こうして、平原八幡神社は、「大内の神社」から、「毛利の神社」に変わったのです。

 そして、末社である真幡社の前身(黄幡社)にも、毛利の家紋をかかげました。すでに毛利に支配されているのですから、従うしかないでしょう。

 

平山八幡神社の棟札

 (芸藩通志、祠廟615ページ)八幡宮、西山本村にあり。永禄三年庚申、毛利元就はじめて建、梁上蟆股(カエルマタ)に毛利の家紋を彫る。東山本村の民、同じくこれを祭る、末社一字あり

 

 一宇とは、ひとむねの建物、という意味です。芸藩通志には、「末社一宇」が真幡社であるとは書かれていません。それに対して、社伝では、「ここの神社でも、社紋として、幟などに毛利の家紋("百万一心"をデザインしたもの)を掲げているのだから、芸藩通志の言う末社に間違いない」と記載しています。

 その後も、この地域の支配者は、毛利から福島、さらに浅野と移り変わりました。

第5章、御神体は比治山に移し去られたのか?

 

(社伝)爾來毛利、福島、浅野と国守の変遷あり古老の伝

に黄幡(おおばん)さん(今の俗称)は村民の崇拝厚かりしに徳川幕

府後期或時御神体を移し去られ比治山々麓の黄幡

社に祀られとなり。

氏子等之を憂ひ或年藩主の参勤交代の

(みぎ)り従ひし氏子お小人某(名前思い出せず)

播磨の国某社からその御分体猿田彦命(さるたひこのみこと)を勧請

鎮御して今に及ぶ去々。

 

社伝では、「黄幡さん」のところに「おうばんさん」と読み仮名がふってあります。しかし、「おんばんさん」が正解ではないかと私は思います。広島市とその周辺地域で、多くの黄幡神社(黄幡社)が、「おんばんさん」の愛称で庶民に親しまれていました。第7章で引用する文献にも、この社のことを「おんばんさん」と呼んでいます。

黄幡神(おうばんじん)とは、中国の軍神です。日本では、道祖神として受け入れられてきました。道祖神とは、路傍に祀られる神のことです。村の境に道祖神を祀る場合は、疫病、悪霊、外敵などの侵入を防ぐとうい意味合いがあります。

 この社伝は、不可解です。社伝冒頭に武田氏のことが、長々と書かれています。ところが、武田とこの神社の関係が書かれていません。そして、社伝の途中で急に、「古老の伝に黄幡さん(今の俗称)は村民の崇拝厚かりしに」と記されます。この神社は、安芸武田氏と関りの深い黄幡信仰の神社なのだ。しかし、武田が毛利に滅ぼされたために、「毛利の神社」の末社にされてしまった。このように解釈すれば、首尾一貫します。

 その続きに、「徳川幕府後期に御神体を(現在の)比治山神社に移し去られた」と社伝に記載されています。それが事実であれば、「何のために」という疑問がわきます。

 実は、「ご神体は盗まれた」とする別の言い伝えがあるのです。

第6章、別伝、御神体は盗まれた?

 

 1939年(昭和14年)6月に山本9丁目の立専寺住職武田庸全氏が上梓した「山本史」の中の「敬神並宗教史」からの引用です(本当は怖い武田山から宇品の花火見学: 武田山つれづれ日記)。

 「当東山本には徃昔より黄幡大明神を鎮祭したる黄幡神社といへる小堂あり。

 然る所その後(年時不詳)何者か社内の御祭神たる黄幡大明神の御神体を盗みて廣島の比治山の上に持ち帰り祭る、而るに夜な夜な御神体より「山本へ帰る帰る」との聲ありて実に奇瑞現はる、遂に神社を東山本の方向に向けて建て祭りしかば山本へ帰るの声止みしと、此の神社即ち比治山の黄幡神社にて今日尚存す。比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし。

 此の事ありて東山本鎮座の黄幡社には祭神の御神体なくなりたれば当時当村住人大伴某なる者上京したる際京都にて猿田彦命の分霊を申し受け帰りて之の社内に安鎮し之を祭るが現在の御神体なりと、而して其の年時も不詳なり。

 私按ずるに道の古来より当村に傳へらるる古老の説は事実ならん。

 比治山の黄幡神社に其記録ありて以前神主が当村に取調べに来りし事あり、惜むらくは当村並びに比治山、共に其の年時を詳にせざることなり」。

 (要約)「時期は不明だが、東山本の黄幡大明神(現、真幡社)のご神体を盗んで比治山の上に持ち帰って祭った者がいる。夜な夜なご神体から「山本に帰る、帰る」という声が出て、実に不思議なことであった。神社を東山本の方向に向けて建て直したところ、山本に帰るという声は止んだ。その神社は、比治山の黄幡神社(今の比治山神社)である」。

 あながち、荒唐無稽な作り話とは言えません。実際に比治山神社は、1646年に移転しているのです(同社の社伝による)。それ以前の比治山神社は、「黄幡谷」といわれた比治山の南部(現在の比治山下公園のあたり)にありました。今の比治山神社は、比治山の西北部にあり、大雑把には東山本の方向に建っています。移転した後の比治山神社は、藩主(殿様)からの手厚い庇護を受けて、順調に発展していきました。

 しかし、明治の神仏分離により、どちらの神社も「黄幡」ではなくなりました。

 なお、もし仮に、ご神体が盗まれたのであれば、「誰が何のために」という疑問が残ります。

 注)「比治山神社」は明治以後の名称ですが、このサイトでは明治以前のことであっても比治山神社と記載します。

第7章、祭神の変更

 

 そして、祭神も、猿田彦命に変更されます。ご神体が移し去られたり、あるいは盗まれたりしなかったとしても、いずれ祭神は変更されました。その理由は、1868年に明治政府が発令した神仏分離令にあります。神仏分離とは、単にお寺と神社を区別するというだけのものではありません。外国に由来する神を神社に祭ることが禁止されました。その結果、黄幡神のような外来の神を祀る神社は、社名と祭神を変更することが余儀なくされました。

 「ふるさと やまもと」では、以下のように記載されています。

 祭神は猿田彦命である。この社は、昔は黄幡神(中国の軍神)を祭り、村民は「おんばんさん」と呼んで崇拝していた。その後、尊王敬神の思想が起こり、異国の神を祭ることが許されなくなったので、明治5年(1872)に高田敷豊氏が猿田彦命を祭神として安置し、名も「真幡社」と改めた。

    山本史をつくる会(編),ふるさと やまもと.ひろぎんビジネスサービス株式会社,2001年,

 ここでは、黄幡神のご神体が持ち去られたか、あるいは盗まれたとする伝承には言及していません。

第8章、社名の変更

 

 (社伝)真幡社の社名の起りは定かならず幕末芸藩々医

当村香川寿軒(かがわじゅけん)翁の筆になる社頭の鳥居の額(木製)

に〇り大正三年今の石の鳥居に改装の際その筆

蹟を其儘(そのまま)に写彫して現在に至る(祖父伝承古

老の口伝により之を〇す)

  昭和三十七年三月(以下、略)

 

 社伝では、「真幡社の社名の起りは定かならず」と書かれています。

  神仏分離により、広島市とその近辺で、多くの黄幡神社(黄幡社)が、社名を真幡神社(真幡社)に変更しました。「幡」の1文字は残したのです。また、この地域の黄幡神社の一部は、社名を大原神社に変更しました。「おうばん」と「おおはら」は、仮名文字で表記すれば似ています。社名を和風に改めながら、どこかに黄幡信仰の痕跡を残そうとしていまう。本心では、黄幡信仰を捨てたくなかったのでしょう。

 そして、祭神も変更されました。

 猿田彦命は、道祖神として祀られることがあります(サルタヒコ - Wikipedia)。道祖神であり、黄幡神に類似した特性をもつ神を、新たな祭神として迎えたのでしょう。

 毛利の家紋を掲げさせられたり、御神体を別の神社に移されたりして、地域の支配者に翻弄され続けたこの黄幡社は、最後に、明治政府の手によって、黄幡信仰そのものを続けることができなくなったのです。

 一方、比治山神社(旧、黄幡大明神)も、明治4(1871)年に社名と祭神を変更しています。比治山神社の場合は、祭神も社名も、黄幡信仰とは無関係なものに変更されました。

 社伝の中に、鳥居の額の筆跡の説明があります。

 香川寿軒(1844-1917)は、この地域の出身者で、医師であり、教育者であり、村会議員でもありました。そして、書家としても知られていました。鳥居の額が木製だった時代の香川寿軒の筆跡を写しとって、現在の石の鳥居の額に刻みこまれています。

終章、ご神体は本当に持ち去られたのか?考えられる4つの仮説。

 

 仮説1:ご神体は持ち去られず、神仏分離によって祭神が変更されたために、別のご神体が持ち込まれた

 「ふるさと やまもと」(第7章参照)には、ご神体が盗まれたり、持ち去られたりした記録はありません。この場合、なぜこの地域にはそのような伝承が残っているのか、という疑問が生じます。

 かつての山本村は、安芸国の中心地で、しかも城下町でした。城に近い山本村の東部(後の東山本村)の方が、村の西部(後の西山本村)よりも繁栄していたかもしれません。しかし、安芸武田氏の滅亡によって、城下町としての役割を失いました。さらに、毛利輝元(元就の孫)が1590年代に広島城を築城したため、この地域はさらに斜陽化しました。

 一方、比治山神社は、立地条件にも恵まれ、今でも参拝者でにぎわっています。

  比治山神社がこの地域の黄幡信仰の中心地となっていく状況を目の当たりにした山本地区の人々には、「お株を奪われた」、「黄幡信仰の元祖は自分たちだ」という思いがあったのかもしれません。

 

 仮説2:社伝の通り、徳川幕府後期に御神体を比治山神社移し去られた(第5章参照)

 誰が何のためにご神体を移し去ったのか、という疑問が残ります。仮に、当社のご神体に特別な価値があったとして、時の権力者が強制的に比治山神社に移させるのであれば、江戸時代の初期にはそれができたはずです。

 

 仮説3:「山本史」(第6章参照)にある通り、ご神体が盗まれ比治山(現在は広島市南区)に祀られた

 同様に、誰が何のためにそれを行ったのかという疑問が発生します。江戸時代は治安が保たれ、盗みは厳しく処罰されました。ご神体が盗まれるとすれば、戦国時代でしょう。それから後で(1646年に)比治山神社が移転したという「山本史」の記述は、理にかなっています。ただし、広島藩にとって、比治山神社の移転には、何らかの政治的な目的があったはずです(ご神体から声が出たからではないでしょう)。

 当時の比治山は、広島藩の藩有林であり、藩が許可しなければ移転はできなかったと思われます。当時、広島藩は、民衆に影響力のある寺院と神社を広島城の近くに移転させ、ある一面でそれらの寺社を保護しながら、それらを統制しようとしました(そのため、現在の広島市西区寺町には寺院が集中している)。ただし、当時の比治山神社(黄幡大明神)が民衆に及ぼす影響力がどの程度であったかは、不明です。

 

 仮説4:1541年の安芸武田氏の滅亡の際、ご神体を略奪や焼失から守るために比治山に移された

 なぜそれが比治山だったにか、という疑問が生じます。戦国時代、比治山は本州と陸続きではなく、日地島と呼ばれていました(下の図参照)。軍事的、経済的にもそれ程重要ではなく、戦乱に巻き込まれることもほとんどありませんでした。また、1540年頃の毛利は、水軍をもっていませんでした。比治山(日地島)に移しておけば安全だ、と思われたのかもしれません。

 なお、比治山神社の成り立ち(1646年に移転する以前)に関する史料は、ほとんど公開されていません。この仮説を立証することも、否定することも困難です。

 追記、この地域の黄幡信仰と、安芸武田氏との関係です。私が知る限り、安芸武田氏が黄幡神社を設立したという明確な記録はありません。安芸武田氏の滅亡後に建てられた黄幡神社(黄幡社)の多くに、安芸武田氏を祀る(供養する)という意味合いがあったが、次第にその意味が忘れられた、と私は思います。明確な証拠はありません。状況証拠を積み上げているところです。